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オルタナティヴな刺激でポポポポン

   ↑  2011/05/08 (日)  カテゴリー: 日記・妄想
久々に音楽についてひとりごと。やっぱりなんだかんだ、自分は「Aメロ」とか「リズム」とかエフェクトとか、知らず知らずのうちに「こうあるべき」っていうステレオタイプにハマって音楽やってるんじゃないかって思う。
ドラムはこういう音、ギターはこう、ベースがあって、ボーカルがある。 大体こんなイメージで、ああいう感じにやったらいいんじゃないか。曲は3分くらいで、終わりはこんな感じ。常になんとなく既存のものに縛られている感じがある。だがそれだけではだめだ。 結果的にそうなるのはよしとして、スタートの時点でそうなっては、何も生まれない。 感覚は大事だけど、その感覚の裏に宇宙や悲しみや歓喜、狂気や激情などの深い感情がなければ、ただ既存の好きなメロディーやリズムを追いかけるだけの数的遊びになってしまう。 それでは、心は動かない。ただのカラオケ。

「どんな音楽が素晴らしいか」
を追いかけるのではなく、
「どういった世界を表現したいのか」「どういった感情を表現したいのか」
感情や世界観を表現するための手段が芸術ではないだろうか。

たとえばショパンの雨だれでは、ショパンが死への恐怖や不安を感じている時、軒先から聞こえる音が繊細なピアノで表現されている。そうした映像や心像の表現がベースになっている。クラシックの多くはそうで、俺が心動かされた曲の多くには、そうした
「伝えたいもの」
の土台がある。
「春」にしろ「魔法使いの弟子」にしろ、イメージが浮かび上がってくる。

俺が黒人音楽の多くに心惹かれるのは、被差別への反抗心とか、音楽の喜びやメッセージ、愛の喜びが心から表現されていることが多いからで、逆に、他人に書かれた曲を歌うアイドルの曲に心動かされることが少ないのは、歌い手がメロディを追いかけ、歌詞の中で描かれている人物になりきろうと演技をしているからで、その演技力が素晴らしければ他人の歌でも輝く人はいるが、大抵はクズで、だから俺はポップ・ミュージックで涙を流すことは少ない。
大抵が、
「あなたたちこういうの好きでしょ?」
っていって、甘いお菓子をつくってみんなに配る、そういうノリだからだ。
「お前ら、こういうの好きだろ。やるよ、甘いだろ。ほら、群がれよ。」
そういう言葉が聞こえてきて、イライラする。

ある程度確立された手法とか、こうあるべきっていう価値観。そういうのを滅茶苦茶に崩して壊そうと創意工夫することも大事だと思う。
「こうしなきゃいけない」
って決まりってのは何もなくて、ジョン・ケイジ(ケイジっても俺じゃないよ笑)みたいに無音の音楽だったり、あるいは30分の曲だったり、そういう在り方っていうか、考え方は大事だ。

例えば、デュシャンは、ただの「便器」を美術館に置いて、それを芸術だとして大議論を巻き起こしたし、ダリは、アンダルシアの犬という、ストーリーのない映画を作り上げ、夢の世界を表現した。こうあるべきだ、違う。べき、なんて、そんなものはない。

人生も当然そうで、常識っていうのはひとつのモノサシでしかなくて、その場その場で自分の生きる上で従う必要のない常識と判断したものに関しては、はみ出していって構わないのだと思う。人間は結局死んだら無に還るわけで、それまでにどう生きるかって答えに関しては、誰からも与えられているわけではない、特に俺は特別何かの宗教に熱心なわけでもないため、そういった考えが強い。

そして音楽や芸術においてもそういったことはいえると思う。常識の範疇で、これはなんとなくかっこいいかも、というところに落ち着くのはどうしようもない。 もともとヤクザな業界なのに、何まともなとこに落ち着いてんだという感じ。殆どの音楽や芸術はそういったところに落ち着いている。クズゴミ以下だ。

ソコソコ流行ってるロック、ポップは殆どがそれ。バックグラウンドがない。
ただメロ追って、
「なんとなくかっこいい」
を追求して。

だから何も残せない。 RCサクセションやブルーハーツやピストルズとは根本的に在り方が違う。パブロ・ピカソやキングクリムゾンとは根本的に在り方が違う。伝えたいものややりたいことがあって、それを表現するのが土台になっているから、既存の音楽の在り方ってのをはみ出すことも多い。だがそれは大した問題ではない。手段というのはどのような形をとってもいい。表現は様々形があって然るべきだ。

芸術ってのは、自己の感覚、センスの表現であると共に、常に新しい在り方を模索するエネルギーが伴わなければ駄目だと思う。伝えたいメッセージ、新しさ、そういうのがセンセーショナルなイメージとなって俺たちの心臓に突き刺さる。 セオリーではこうで…と、セオリーに倣うよりは、そのセオリーから敢えて大幅に外れたり、全ての基準を自分に置くべきだ。大抵そういうことをすると、とんでもなく「ヘンテコ」なものができる。だけど、そのヘンテコを恐れない勇気が、オルタナティブで、新しさなんじゃないか。

「学ぶ」は「真似」という言葉からきているという。既存の音楽や芸術、目指すものを真似していくことも大切なことだろう。だが、「アウトプット」をするには、「学ぶ」だけでは駄目だ。学びを昇華しなければならない。ただなぞるだけでは、何も新しいものは生まれない。

とにかく、以上のようなことを思い、俺は内省し、改めてゼロベースで自分の人生へのアプローチの方法論を構成しなおそうと考えた。俺はやっぱりオルタナティヴなことを追求していきたい。ヤクザな生き方でもいいけど、とにかく、オルタナティヴに!そういう刺激的なことでしか興奮しないように、感覚がマヒしちゃってるからしょうがない。人並み以上に性欲も強く、プライドが低く、非常識な人間だが、何か創造的なことをしようと妄想している時は、一番楽しいと感じる。

そんなことを考えた夜。
アナーキストのアナルは、今日も静かに息を吐く。 プププ、、、、プゥ、、、
「最低。」
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